いまごろ『ヘヴン』

「ヘヴン シャガール」でGoogle検索すると、「吉原ナントカ嬢の日記」のようなものがダーっと出てきて困ります。吉原に「シャガール」という店があるそうな。泣きそう。

「シャガール ヘヴン」で検索すると、出てきました。『ヘヴン(川上未映子)について』です。『ヘヴン』という小説にシャガールと思われる絵の話がでてくるので、調べてみたのです。たいていの人がそれは『誕生日』という作品のことだと書いていました。

川上未映子については調べていません。作者についての関連知識があると陳腐に感じてしまうパターンかなと思いまして。作品は大変面白かったので、余計な情報で読後感を変えたくなかったからです。

<あらすじ>

ある中学校のあるクラスに、いじめられている子が二人いる。一人は女の子「コジマ」で、衣服が汚い、くさいといって女子から暴力を受け、パシリをやらされている。もう一人は主人公の「僕」で、二ノ宮一派から毎日暴行を受け、ロンパリとののしられている(彼は重度の斜視である)。

いじめる側のリーダー格二ノ宮は学業・スポーツ優秀、顔がきれいで女子に人気がある。友人の百瀬も同様だ。

ある日、僕はコジマから手紙を受け取った。「私たちは仲間です」。彼らは文通で友情を深めていく。

夏休みに二人で電車に乗り、シャガールと思われる作家の展覧会に行く。コジマはシャガールが好きで、中でも『ヘヴン』(『誕生日』のこと)が好きだと言った。

コジマは何故自分がやられるほうだいにされているのか、その理由を語る。僕はといえば、曖昧ではっきりしない。

いじめられている僕とコジマの家庭環境は複雑である。

まずコジマのことだが、彼女の両親は離婚したので彼女は母親の家にいる。離婚理由は事業の失敗、その父は今、生きるための金銭をやっと稼げる程度だ。たまに父の元に遊びに行く。父のスリッパはぼろぼろなのに、彼女にはやさしくケーキをいくつでも食べなさいと勧める。彼女はかわいそうな父に殉教するため、風呂に入らず、髪はとかさず、服は洗濯しないようにしているのだ。

そして、「いじめる人にはそれなりの理由があるの、だから私たちはいじめられなければならないの」と信じることで自分を保っている。

僕は、継母と二人きりで生活している。父親はほとんど帰ってこない。継母とは淡々とした関係だ。僕はコジマの考えを聞き考えてみるが、いまひとつ腑に落ちない。

僕に対する暴力はひどくなり、体育館でサッカーバレーボールと称して顔を蹴られ、大けがをして大出血した。先生にばれないように、コジマが床の血をふき取るのを手伝ってくれた。教師にも母親にも医者にも「自転車とぶつかった」といった。だれも疑わない。学校に行きたくない、それでも行く僕。


病院で、僕は偶然百瀬と話をする機会を得る。「どうして暴力をふるうのか」「どうして放っておいてくれないのか」と言ってみるが、百瀬の答は僕の問いかけとすれちがう、決して交わらないものだった。

最終決戦は突然やってきた。くじら公園で会う僕とコジマ。そこに二ノ宮一派が現れて、「お前たち、服を脱げ。そしてセックスしろ」という。いじめるための罠だったのだ。抵抗できない僕。石を握るが、どうしても二ノ宮を殴れない。傍観する百瀬。

明るい空から突然強い雨が降りだした。そのときとったコジマの行動は…

<以上>

<感想>

家庭や学校生活で傷つく状況を慢性的に受け止めていると、だんだん無気力になってくる。子ども自身で解決することはできず、親に言っても無駄で、もちろん先生に言っても無駄だとすると、中学生くらいだと脱出することもできない。どうにでもなれとグレることもできず、ただただ覇気なく毎日を過ごすだけだ。

亡くなった子どもについて、どうすれば救えたかと言う議論で、相談相手が必要だという意見もあるが、そりゃああったほうがよいが、自分が傷ついていることを自覚していないのに、会ったばかりの人にうまく話すことは難しいだろう。残った力をふりしぼって生きている子を、大人は見つけられるのだろうか。

コジマは自分がいじめられる理屈を開発したし、僕は問いかけている段階だが、二人とももう限界に近い。無気力に陥りながらなんとか生きている状態である。「弱さ」のニヒリストである。

百瀬は生意気なことをいう「強さ」のニヒリストに見える。だが、正義感が全く無い。彼は、社会道徳など無視してよいのだと言ってのける。「自分は自分の範囲でやりたいことをしているだけ、君も好きなようにやっているだけ。やり返したいんだろう?でもできないんだろう?それは君が選んでいるからだ。」憎たらしい子どもである。

「それをしてはいけないということが、みんなわかる日がくる」というコジマとは対照的である。この子はどうしてこんな考え方になったのか、親の顔が見たいと思った。百瀬の境遇には裏がありそうだが、それは読者が想像するしかない。多分そこまで書けなかったので二ノ宮・百瀬の家庭環境については描かれていないのであろう。ちょっと不満。

自分は子どもの頃に、百瀬のような考え方になったことがある。感受性に欠けていたのである。人の不幸を少しもかわいそうに思えなかった。いまでもそんな時があることに気が付いた。恐ろしいことだ。

百瀬の話は筋が通っているようであるが、ダメだ。ダメなもんはだめだ。百瀬の心は死んでいる。

<以上>

思うに、ニヒリズムは今の世の中に悪い風に蔓延していて、「生きている意味なんてない、金だ金だ金だ」ってなっている人が多いと思います。なんでこんなことになっちゃったのかなあと考えてみますが、だめです、わかりません。素人にはここまでです。

哲学に精通した方の読後感想文を読んでみたいものです。「やる側の論理」「やられる側の論理」も解き明かしてほしい(古いネ)。

あべさんとかけさんは、アメリカ留学中に知り合ったんですよね。彼らは篤志家ではなく道徳的ニヒリストなのは明らかです。これは全くの想像ですけど、もしかしたらあべさんはアメリカでかけにたかられ、他にもいろんな人からたかられ、心が死んでいる可能性があります。でもそこでむしられるのは私たちが払った税金です。そういう人が為政者なのは困ります。早く交代してほしいと思います。

最後の雨の場面は、Psychedelic Furs – Heaven を意識していると思います。好きなのかな?


(正式プロモ動画は日本では見られないようなので、誰かがゲームをやっているイマイチな動画を貼っておきます。懐かしんでください。)

『ヘヴン』についてのブログはいくつか読みました。皆さん面白いことを書きますね。

これが一番よかったです。 東京ぼんやり日記

(2020/01/05)