Aucklandの女 3

「あっ」と思い出した。30年くらい前、マレーシアのどこかの博物館でぶらぶら展示物を見学し、展示が終わりに近づいて「さあ終わりだ、外は暑いぞ」と覚悟したとき、

最後の部屋に、大きなエリザベス女王の肖像画が掲げられていたのである。

え、待ってよ、さっきのコーナーまでイギリスからの独立戦争を展示していたじゃないの、どういうこと?確か、いくつかの国と航路が女王を中心として描かれていたと思う。それは『英国連邦』だった。

かつてイギリスの植民地であった国々が、独立したのちもイギリス植民地であった縁を使ってゆるい連合を組み、ゆるく協力しあうためのものらしい。

イギリスはいろんな国を侵略し解放したが、英語というおとしものをばらまいていったのだ。

もちろん当時マレーシアの人が皆英語を話すという感じではなかったが、今は違うかもしれない。

ここで私のこだわりの「何のために英語を学ぶのか」という話になる。


五年前の帰国時にはAさんと同じ飛行機だったので、前日二人でリゾートホテルで最後の夜を贅沢に楽しむことにした。ネットで念入りに選んだが、プールはきれいに見えるようにペンキで水色に塗ってあり、しかもところどころ剥げていた。エステは寒すぎた。レストランでは金持ちの外国人がナニーをこき使っていた。それがフィリピンだった。

飛行機は朝出発なので、5時には起きなければならない。うかつにも、私は寝る前に睡眠導入剤を飲んだためふらふらだ。Aさんも普通に辛そうだ。急いで荷物をまとめた。そのあとのことはよく覚えていない。多分、タクシーで空港まで行ったのだろう。

空港に行くとすでに長蛇の列だった。小さい空港なので、みな屋外で並んでいる。コリャだめだね~とか言って花壇の横に座り込んでだらだら話をしたり、小さい土産物屋で買い物していたりしていた。ふと気が付くと、もう誰もいない。みんな飛行機に乗ってしまったらしい。

一応あせって「乗ります」と言うと座席はもう無いという。職員は「困った奴らだ」という顔だ。あ~私たち帰れないのか~、とぼんやりしていると、やはりファーストクラスの席が与えられた。ごくまれに起きるラッキー事象である。ところが、Aさんも私もグースカ寝るのみだった。食事の時は起きた。Aさんはフィリピン料理を頼み、私は和食を選んだ。彼女は今でも「こおろぎさんのお蕎麦、すごくおいしそうだった」と悔しがる。フィリピン料理はいまいちだったそうだ。そりゃそうだ。食事のあとも眠りつづけたのでその乗り心地はまったく覚えていない。

成田空港にはAさんの妹が迎えに来ていた。彼女によく似た美人で、二人は抱き合って喜んでいた。姉妹っていいなあ、と初めて思った。

私には迎えに来るものはいない。重いスーツケースをひきずり、汗まみれのワンピースのまま家路についた。


今回再確認したところ、彼女は私より20歳若いのだった。そういえば、おかあさんがQUEENのファンだと言っていたことを思い出した。よくこんなおばさんに付き合ってくれたなあ、ありがたいことだとしみじみ思った。

それに去年の暮れに、新宿のトルコ料理屋で会っていたらしい。私は相当やばい。

最初はモラトリアムか?と思ったが、彼女はもうしっかり社会人だ。日本に戻らない理由はなんとなくわかっている。自由でいたいのだ。Aさんはこれからどんな人生を送るのだろう。彼女にはこのまま進んで、自由をつかんでほしい。