Aucklandの女 その2

- マオリ族 -

今日は、前回宿題とした疑問のひとつ、

①先住民のマオリは、イギリスを相手にどのようにして生き延びたのか?

について書きます。ちょっと難しかったと後悔しています。

前回まで→ Aucklandの女 その1- NZの歴史 -

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【1860~1881】NZ戦争(マオリ戦争)

犠牲者はNZ政府側1,000人、マオリ側2,000人を超えた。そして、わずかな土地がマオリに残った。マオリの社会は崩壊した。


ここからである。

1.政治は何かしたか?

【1852】NZはイギリスの植民地から、内政の自治を認められた。立法院と行政院が置かれ、州も置かれた。選挙制度が導入され、内閣もできた。


内閣制度発足以降、首相は激しく交代した。「首相」は通常有権者の意思を反映するものだと思うので、その切り口で考えてみた。


政策がはっきりしてくるのは、1870年以降である。


↓首相年表

ニュージーランドの首相 


それぞれが時代や役割に合わせて行動をしているし、ある時は仲間、ある時は敵として混ざりあっている。よって、実のところかれらが何を考えていたのか、単純に判断できなかった。保守/自由の色分けは、全く私の無理やりの判断である。


当初はマオリの土地の購入・戦争・没収、入植者の治安維持などが課題であったが、後半になると「国民」の生活を考えることに変わってきた。保守的な人物と自由主義的な人物が頻繁に交代しているのは、有権者の価値観が揺らいでいたためではないだろうか。


注目したのは、⑩Harry Atkinson と⑬Robert Stout の激しい争いである。着任期間が数日という場合もあり(年表には表せなかった)、1883年~1891年の約8年間に、⑩Harry Atkinsonは3回、⑬Robert Stout は2回 着任している。これは禅譲とかプーチン流ではなく、本気で対抗しあった結果であろう。

【古い入植者の典型】

⑩Harry Atkinsonはもともと入植者なので、マオリが土地を手放すことを望んでおり、「野蛮な」先住民は優れたイギリス人に吸収されるべき、と考えていた。⑧Julius Vogel を使っていたこともある。

有権者の借金問題に取り組み、国民保険を提案した。しかし、マオリの土地の接収強硬派であった。

⑩  Harry Atkinson

・有権者の借金問題・対マオリ強硬派・国民保険提案 

【ライバル登場】

一方の⑬Robert Stoutは、ジョン・スチュアートミル とハーバート・スペンサー を愛読し、現代でいうところの「古典的自由主義」を信奉していた。

この人は1844年生まれ、NZ移住が1863年、若いうちにミルの本などに接する機会があったのかもしれない。古風な⑩Harry Atkinsonとは違って、新しい考え方に触れてきた人である。

寝返った⑧Julius Vogel、盟友の ⑭John Ballance とともに、土地の国家所有、強力な地主階級牽制、女性参政権の推進をはかった。

⑬  Robert Stout 

・土地の国家所有権 ・強力な地主階級に圧力 ・女性参政権・ John Ballanceの盟友

【Harryにとどめをさした】

次の⑭John Ballance であるが、彼はベルファストで暴動を見て育った。NZでは⑪George Grey と働くも、財政についてGreyともめて辞任。

のちに⑭Robert Stout とともに、マオリの土地保護を推進した。マオリとの緊張関係を改善することが入植者に平和をもたらすと考えたのである。

自由党が結党され、⑭John Ballance が選挙で⑩Harry Atkinson に勝利し、首相となった。


Harryはもう時代遅れの人になっていた。


この後、しばらくの間自由党の内閣が続くことになった。

⑭  John Ballance

・農村への経済支援・男女の平等を宣言・マオリの土地保護・黒字予算を発表  

⑧Julius Vogel (お写真だけ)

 Julius Vogel 

・NZ初のユダヤ人首相(London出身)・マオリと和解派・女性参政権法案提出・のちにRobert Stout の仲間となる


【19世紀末の政策はこうなった】


ここでマオリの土地接収に一旦歯止めがかかったと思われる。

【ベンサム、ミル】懐かしいですね。倫社」の教科書でお会いしてから何十年ぶりになりますか。

この中では、やっぱりベンサムでした!

友達と彼らの写真(白黒で不明瞭)を見て、

「ベンサム良くない?」

「この服や帽子がいいよね~」

などと話していたが、その写真は彼の「自己標本」で、遺体だった可能性がある。私たちは遺体の写真を見て、「いいよね~」と言っていたのかもしれない。

ジョン・スチュアート・ミル 『自由論』 、『功利主義』 の人
ジェレミ・ベンサム 最大多数個人の最大幸福』 を考えた。ロンドン大学にある自己標本。学生がいたずらするので、頭部は作り物に替えられた。
ハーバート・スペンサー帝大出エリート哲学者・井上哲次郎はスペンサーにはまってしまい、ドイツ留学中にイギリス中を探しまくった。面会の記念に帽子と傘をもらった。なんとなくうらやましい。

2.しかし、総督がいた

これでスッキリ解決!とはいかなかった。NZには"Governor"という人がいたのである。


NZがイギリス配下になると、イギリスから"Governor"が来た。Governorというので、都知事みたいな人かと思ったが(勉強してないから)違った。この場合、「総督」というのが正しいようだ。選挙が始まり、政府ができても総督はイギリスから派遣され続けた。


NZはイギリスから自治を認められているものの、国家元首はイギリス王/女王である(今でも)。国家元首は遠い土地を直接治められないので、国家元首の代理人=総督を、各地に派遣していた。

"Governor"にはいくつか種類があるようだが、その制度は複雑でよくわからない。


自治が認められていない時代は、総督が植民地を管理した。当初は将校が、次にプロの植民地統治者、次に貴族が総督としてイギリスから派遣され、派遣期間が終わると帰国した。武力→圧力→儀式、という植民の定石なのかもしれない。


総督はイギリス政府の手先なのでたいていマオリに厳しく接したが、中にはマオリの土地を保護しようとした人もいた。

【⑪George Grey 】

「プロの植民地統治者」である。

南オーストラリア総督→NZ総督→ケープコロニー総督→NZ首相を歴任した。


「アボリジニの証人法」を作ったり「ワイカト侵攻」をしたりしているので悪人かと思ったが、いろいろ読んでいるうちに「たいてい前任者の尻拭いをさせられる有能な人」というイメージに落ち着いた。


「アボリジニの証人法」はアボリジニが裁判に訴えやすいようにするための法律だったが、ゆがめられて使われ、効力が発揮されなかった。

「ワイカト侵攻」は前任総督がやってしまった戦争を終結させるため、やむなく行ったと思われる。


首相の時はリベラルに頑張ったが、入植者の理解は得られなかった。GreyののちRobert Stout が首相になるまで6~7年かかっているが、逆の見方をすれば、たったそれだけの年数で有権者の気持ちは変わったともいえる。


大変な探検や旅が多かったが、イギリスに戻り86歳まで生きた。丈夫な人はちょっと違う。

⑪  George Grey

・総督のプロ・Robert Stout 、John Ballance と組む。・アボリジニの証人法・ワイカト侵攻・マオリ文化の理解者

NZの政府ができてからも、政府は総督の影響を受けた。

【William Onslow】

1889~1892に総督。Harry AtkinsonとJohn Ballanceの対立にからみ辞任。


その頃、総督の地位は上流階級に人気がなかった。NZ政府が総督の給料を賃下げしたからである。おかげで貴族のOnslowは35歳の若さで総督の地位につくことができた。


⑩Harry Atkinson首相とその支持者が、上院議員にAtkinson派を推薦するようOnslowに迫った。⑭John Ballanceの自由党勢力を懸念してのことである。

推薦することはイギリスでは普通のことだったので、Onslowはそれに応じた。しかしNZでは異なり、そのことは一般市民の反対を呼んだ。

結局⑭John Ballanceが勝ってしまい、BallanceはAtkinsonが推薦させた上院議員数を取り戻すようOnslowに依頼したが、Onslowは「上院議員は保守的であるべき」と言って断ったそうだ。問題は後任総督に先送りされ、Onslowは辞任しイギリスに戻った。


もう有権者の意見は無視できない世の中になっていたと思われる。イギリス貴族を押しのけながら、コトは進んでいったのだった。


現在でも総督職はあり、Dame Patsy Reddy というNZ出身の女性が就任している。弁護士でビジネスウーマンであるが、貴族ではない。年収は約2,500万円、すごくたくさんの仕事があるので高額とは言えないかもしれない。首相もArdern、女性である。日本から見ると大変なことになっている。

William Onslow伯爵イギリスの保守派政治家 を経て総督に。

3.マオリは何をしたか

マオリは部族や家系をとても大切にし、マオリ社会は部族単位で構成されていたため、部族をまたがって団結することが難しかった。また、イギリスに付く部族/付かない部族とに分かれ、そこをイギリスにつけこまれていた。アメリカインディアンと同じである。


しかし、マオリはばらばらながらも「コタヒタンガ運動」を続けたのであった。

【コタヒタンガ運動】

「一つにまとまる」を意味する言葉。 

マオリによるマオリのための自治権の回復をめざす運動。また、マオリ族を統一することを目的としたマオリの政治運動。 運動は部族・信仰などによりばらばらに行われてきたが、1890年以降収束しつつ成果を出すようになった。


【1850年後半】  マオリの王運動

土地の喪失と部族間抗争、依然として続く白人との戦いの中で、部族を超えてイギリスと同じような王を立て、マオリ族として団結しようと考えた。


初代の王に選出されたのはワイカト族の首長ポタタウで、マオリの部族連合は白人勢力に対し結束して抵抗しようとした。政府からは反乱とみなされ運動は進まなかったが、そんな中でも王は求心力と権威を獲得していった。 


【1890】 マオリ青年党

西欧的教養を身につけたマオリ族が、マオリ族と白人社会との融合を試みた。マオリ族の人口は60年代の入植者との戦いで減少の一途をたどったが,90年代に急速に増加した。しかし白人社会を敬遠しているマオリ族は多く、彼らのために西欧文化、特に公衆衛生と教育面での融和に注力した。議会でも政党活動を行ない、成果を収めた。 


【1892~10年間】  コタヒタンガ議会

さまざまな運動がマオリ議会として結集し、 国民選挙を含む体制が合意された。 議会は下院と上院を持つことになった。 

1892年  最初のマオリ議会が開催され、土地や人口減少、権利の回復などマオリの問題について討議された。

【1909年】

アイルランド・マオリ系のJames CarrollがNZ首相となる。コタヒタンガ議会との調整に苦労する。

その間も白人との戦いは続いていたが、1916年にマウンガポハツでの戦いが最後の小戦争となった。

【1924年】ラタナの登場

ラタナは預言者でヒーラーであったが、マオリ社会の抑圧を取り除くため政治参加するようになった。

ラタナはジョージ5世にワイタンギ条約の違反に関する請願書を提出しようとした。請願書には、45,000人のマオリ族(マオリ族の3分の2)が署名した。 NZ政府の反対に会い実現しなかったが、ワイタンギ条約は世の中の注目を集めることになった。そして、4つのマオリ議席(1867年に与えられた)すべてを獲得することができた。


【第二次大戦後】

マオリは仕事を求めて都市に移動した。植民地化の影響について認識が高まり、都市のマオリの抗議運動が始まった。


【1970年代から1980年代】

続いて多くの抗議運動が起こった。 マオリの土地の権利、マオリの言語、反アパルトヘイト、反人種差別が含まれていた。 1971年、一部のマオリは議会にマオリ語に関する請願書を提出し、「ワイタンギの日」に抗議運動が始まった。 

1975年、ワイタンギ裁判所ができる。ワイタンギ条約違反が認められ、一部資産がマオリに返還された。 

【戦争】

マオリはNZが参戦したすべての戦い(第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など)に参加した。

1965年から1972年にかけてNZがベトナム戦争に参加したときは、軍のマオリの割合は約35%だった(全人口割合は約8%)。 

【2019】

マオリは約80万人。いまだに病気が多く、識字率や住宅事情に問題がある。一方、他の移民には、マオリばかり優遇されているという意見もある。


団結への道のりは長かったが、彼らは確実に現在にたどりついたのだった。


4.マオリが生き残った理由

【要因】




【何が一番効果的だったか】


一番目は「マオリが選挙権を持った」ことだと思う。選挙システムを理解した彼らは、それをうまく使うことができたのだ。何で当時の政府が選挙権を与えてしまったのかは謎である(善意ではないと思う)が、選挙権が重要なものであることがわかる。


二番目に「マオリが強かった」ことである。イギリス軍が引き揚げた後の入植者は、少数であっても強いマオリの報復を恐れたのだと思う。20世紀の大戦では、マオリの兵士はマオリ族の存続をかけて戦いに行った。強かったそうである。しかし、若者が減ってしまった。いたたまれない話である。彼らがその地位を認めさせるには、それしかなかったのだろうか。


そして今、マオリ語は英語・NZ手話と同等に公用語である。何より現政府は過去の過ちは過ちと認め、公表している。たとえば、以前は「マオリ戦争」と呼んだ戦争について、最近は「NZ戦争」と呼ぶことにしたそうだ。「マオリ戦争」という名称はイギリスから見た呼び方だということで、不平等だと考えるらしい。徹底しているのだ。


なぜか、NZの人は基本的に「富の分配」を重視している。それも200年前から。なぜだろう?こんどAさんにいろいろ聞いてみよう。


日本人はそんなこんなをすっかり忘れてしまったようだ…

とにかく強いのよ。

主な参照サイト:

NEW ZEALAND HISTORY  https://nzhistory.govt.nz/  

NZ政府が作ったものだが、よくできていて大変面白い。

「50年前と比べましょう」として1966年の'An Encyclopaedia of New Zealand' が掲載されており、過去の考え方と現在のそれを比べることもできる。

歴史が短いからできるといえるが、こういうものは幻想の拡散を防ぎます!


フェザーストン捕虜収容所   https://teara.govt.nz/en/photograph/1216/featherston-prisoner-of-war-camp

日本兵についての記述があります。悲しい話です。


ある大学の研究所の記事  http://www.kansai-u.ac.jp/ILS/publication/asset/nomos/42/nomos42-01.pdf

NZの学者が書いたものらしい。現在のNZの差別・逆差別についての問題が書かれている。私には難しいが、なんとなくわかった気になりました。私たちにも同じ問題があります。


また、マオリは少数民族を迫害していたという記事もありましたが、本筋と関係ないので取り上げませんでした。

つづく

(2020/2/1)