彭徳懐元帥

毛沢東は恰幅がよく額が秀でていて読書家、弁舌巧みで、その演説はすばらしく聴衆を魅了したという。一方、私生活は奔放で放埓。私の感覚で言えばミック・ジャガーのようであり、常人とはかけ離れている人だ。

彼は中国共産党首席という立場にありながら伝統的な皇帝のごとく君臨し、自分の権力を損なう者がいないか常に注視し、その芽をつみ、心の休まらない毎日を送っていた。しかし病には勝てず、権力を保ったまま英雄として亡くなった。

1.李志綏(り ちすい)

『「毛沢東の私生活」李志綏(り ちすい)』という本には、毛沢東の専任医師であった李志綏本人の生きざまと、彼から見た毛沢東の人物像が描かれている。この本は、李志綏がアメリカ移住後に書いた「回想録」である。日本では堂々と売られているが、中国大陸本土では出版が認められていないらしい。中国に持ち込んだりしたら大変なことになるので、中国旅行中に読もうなどとは思わないほうがよい。『「毛沢東の私生活」の真相』という本もあるらしいがそちらはまだ読んでいない(折をみて読んでみたいものだ…)。李氏はこの本を出版した翌年、シカゴの息子宅で急死したそうである。


李志綏は、清朝から代々の医師の家系で、知識人階層の出身であった。中国で西洋医学を勉強し、その後、香港を経てオーストラリアで医者をしていたが、白人第一主義の国で違和感をもって暮らしていた。そんな中、「中華人民共和国」の樹立に心を躍らせて中国に帰国し、中国共産党に入党した。

ある時毛沢東の主治医となるよう命じられ、そのときから毛沢東が亡くなるまで、彼は毛沢東の超人的な生活と、権力闘争を目の当たりにし続けたのであった。自身の出自が批判の対象になりうるため、権力闘争に巻き込まれないよう注意深く暮らす毎日であった。

2.毛沢東の活動、超略年表

1949年、中華人民共和国が成立、中央人民政府主席に就任。

1952年、突然、社会主義への移行を表明。

1954年、全国人民代表大会を設置。 国家の要職は中国共産党が独占した。

1956年、「百花斉放百家争鳴」運動を展開。多くの知識人を弾圧、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。

1958年、「大躍進政策」を発動。大失敗する。

1959年、大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲る。

同年、廬山会議で、彭徳懐を粛清。

1962年、七千人大会で、大躍進政策に対して自己批判する。立場が弱まる。

1964年、林彪により『毛沢東語録』が出版される。毛沢東の神格化が進む。

1966年、「プロレタリア文化大革命(文革)」発生。「紅衛兵」を支持。犠牲者は数百万から数千万とも言われている。

1976年、死去

権力に取りつかれた人である。と思う一方、李氏の本を読んでいると、毛は心の底から「人民が自らの意思で改革に盛り上がる時」を待ち望んでいたように思える。そのためにいろんなタネをばらまいて、騒ぎが発生するのを待つのだが、そううまくはいかなかった。年表を見ると、1959年の「廬山会議」が文革を進めない最後のチャンスだったのではないかと、ど素人ながら考えてしまう。


毛沢東は、対立するAさんとBさんを前に、「○○○はどうかなあ、ごにょごにょ…」と言う。

Aさんは期待に添おうと、「○○○はすばらしいです!」という。Bさんは黙っている。

その後、Aさんはチャンスとばかり、Bさんは○○○に反対しているとウソの証拠まで作って毛に報告する。毛は「そりゃあいかんね」と言って、AさんにBさんを追放させる。

その何年かあと、Aさんは、Bさんを嵌めた罪で追放される。

もともと、Aさんの追放が狙いだったのである。何故そんなまだるっこいことをするのかよくわからないが、これを繰り返していくと、実力者を排除することができるのだ。言いがかりをつける対象はふとした発言でよく、それに対して毛沢東が「う~ん、まあいいんじゃない?」とかつぶやくと、皆がものすごい「忖度」をした結果、Aさんが追放されることになる。そして、迷惑な法律が一般人に押し付けられるのであった。

3.彭徳懐(ほう とくかい)

彭徳懐(ほう とくかい)は1898年、湖南省に生まれた。家は貧農で、物乞いをして糊口をしのぐ生活をしていた。17歳で湖南軍に入隊し、その後、国民革命軍を経て中国共産党へ入党した。

入党後まもなく、中国工農紅軍紅五軍を結成する。彭徳懐の部隊は厳しい軍律と勇敢、団結で知られ、彭徳懐は兵士から慕われる理想的な司令官であった。多くの軍功を立て、1934年10月からの「長征」にも参加した。

その後、日中戦争、国共内戦、朝鮮戦争を戦い抜き、1955年、中華人民共和国元帥 となった。

彭徳懐は剛直で、毛沢東と故郷が近いことや、長征で一緒に戦ったことから、歯に衣着せぬ物言いをし、党内で唯一毛に文句を言える人だった。1953年と1957年の政治局の会議で、毛が皇帝のようにふるまって、「後宮佳麗三千人」を擁する(ガールフレンドがいっぱいいた)、と非難した。毛は泳ぐのが好きなので、別荘(別荘がいっぱいあった)にもプールを作ろうとしたが、彭徳懐に反対された。

毛沢東は1958年に「大躍進政策」を進めた。この運動は、大衆から自然に沸き上がったものと毛は理解し、ほめたたえた。しかしその内容は、地方の役人や側近に塗り固められたウソで、「土法高炉」 は農家の裏庭に炉を作り、家の鍋窯をとかして「鉄ができた」と言っているものであり、人民公社で農業の生産性があがったということも、帳簿上のウソだ った。毛は地方に視察に行くが、行く先行く先で「成功しています!」という報告を受け、まじめに喜んでいたようである。この政策のため、鉄を溶かすための燃料として近郊の森林を伐採し、男たちはその伐採に駆り出され、男手不足で農産物の収穫ができず、大凶作を引き起こした。生産高の水増し報告をしているので、年貢は多くなる。数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出したという。その間も毛や側近たちは豪華な暮らしを楽しんでいた。


【廬山会議】

1959年、数日間にわたって「廬山会議」が開催された。

いまだに「大躍進政策は間違っていない、数字は正しい」というものが多い中、彭徳懐元帥は毛沢東に向けて、私信として「上申書」を出していた。彭徳懐は、故郷・湖南省の農村を視察して、そのひどい有様から、問題点をあげ政策を変更するよう求めていた。

ところがある日、毛沢東は彭徳懐の私信である上申書を、自分の批評を加えてコピーし、会議で配ったのである。彭徳懐は後ろの席で、怒りで黙ったまま座っていたが、「何故自分が毛にあてた私信を勝手に配るのか」と言った。毛は「君は私信を配るなと、私にいわなかったじゃないか」と言ったそうである。毛は、彭徳懐を厳しく攻めた。そして、その会議の中で彭徳懐は「反党分子」だということにされてしまった。

会議後、毛と彭は外で出会い、毛は「あらためて話しあおう」と言ったが、彭徳懐は怒りおさまらず、「話しあっても無駄だ」といいすてて立ち去った。結果的には国防部長と中央軍事委員会委員の地位を解任された。後任は林彪だった。


【文化大革命】

『海瑞罷官』という京劇戯曲作品が発端と言われている。作者は呉晗(ご かん)という人だ。明の時代の正義派の官吏の海瑞が悪徳地方官僚を懲罰する、という話で、当初毛は好んでいた。

ところが、姚文元(よう ぶんげん)は、「海瑞罷官はプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」である」と攻撃した。 毛の意向をくんでのことである。

海瑞罷官は彭徳懐の解任を暗に批判した作品とみなされ、彭徳懐は関係がないのに批判闘争会で暴行された。


’’ 1966年には紅衛兵により成都から北京に連行される。1967年7月9日の批闘会では7度地面に叩きつけられ、肋骨を2本折られ後遺症で下半身不随となった。その後は江青の医療服従専案での監視下に置かれ監禁、病室で全ての窓を新聞紙に覆われたまま約8年間を過ごした。

1974年9月には直腸癌と診断された。彭徳懐は鎮痛剤の注射を拒否され、下血と血便にまみれた状態のままのベッドとシーツに何日も放置されるなど拷問に近いものであった。死の直前に塞がれた窓を開けて最後に空を一目見せてほしいと嘆願したがこれも拒否され、同年11月29日に没した。彭徳懐の死亡カルテには「王川・四川成都出身・無職」と無関係な名前に変更されていた。同じく迫害死された劉少奇や陶鋳同様に「病死」と公式発表された。

1978年12月、鄧小平が権力を掌握した党第11期3中全会において名誉回復がなされた。迫害中に受けた記録として『彭徳懐自述』がある。’’ (Wikipediaより)

4.善玉不足

映画の中では、ブルース・ウィリスみたいな主人公が、トラボルタみたいな人が率いる悪の組織に潜入する。もともとの子分と主人公は仲良くできない。ある日、子分が失敗をする。トラボルタが失敗した子分を前にして、「お前が撃て」と言ってブルース・ウィリスに銃を渡す。ブルース・ウィリスは、子分を撃ったりしない。思わぬ力で反撃し、トラボルタを倒すのであるが、現実にはブルース・ウィリスはいない。しかし、トラボルタはいる。圧倒的な力を持つ者から「従え」と言われたらどうするのか?従わざるをえないではないか。そのような状況に陥ったとき、自分はどのように振舞うのか?

そんなこんなで、勇気と誠意をもって毛沢東に苦言した彭徳懐のことを尊敬するとともに、彼を痛めつけた人、彼を見捨てた人の気持ちを考える。「しかたなかった」とか言うのかな。


いつか『トランプ大統領の私生活』という本が書かれ、彼は世界の救世主だったとか大災厄だったとか議論されるのだろうが、その時に欠いてほしくないのは、彼を誰が支持したか、誰が止めたか、彼の周りの誰が何をしたか、ということである。


演説が上手な政治家が、人々を誤った方向に導いた例はままある。だからといって、その国の首相が演説が下手だから大丈夫だと油断してはいけない。その国は、そんな人しか政治家にならないのに、何度か戦争をしてきたからだ。たくさんの人権が踏みにじられたことだろう。領土がどうとか、エネルギーがどうとか、産業がどうとか、金のことばかり考えていると、ごまかされて、すぐあんな世の中がやってくる。「それでも私はブルース・ウィリスだ」と思える人は、何人いるだろうか。

(2019/8/18)