A Tale of Two Uriah Heep

その5-打ち砕かれた夢

これは、A Tale of Two Uriah Heep -David Copperfield-の続きで、かつ最終章です。

このブログは「Uriah Heep Uncensored on the Record」を参考にしているが、この本ではDavid Byronの最後について、Jeff Perkinsの「Born to Perform」を参考にした、とある。「Born to Perform」は電子書籍も含めて手に入れることができなかった。ドイツのどこかの古本屋の本に紛れ込んでいるに違いないのだが。

最後に、Uriah Heepを辞めたあとのDavid Byronの足跡をたどってみる。

----概略---------------------------------------------

1975年 ソロアルバム「Take No Prisoners」

1976年 Uriah Heepをアルコールの問題で解雇される。

Rough Diamondを結成。

1978年 ソロアルバム「Baby Faced Killer」

1980年 The Byron Band結成。

1981年 アルバム「On the Rocks」

1985年 38歳で他界。

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【1981 On the Rocks】

David Byronの生前に発売された最後のアルバム。力のあるミュージシャンが集まったにもかかわらず、このアルバムは成功しなかった。ジャケットの絵では、Davidが巨大な氷の塊を壊してカムバックするかのようであったのだが。

私が聴いた限りでは、Davidの声は相変わらず美しく、アルバムはそんなに悪くない。しかし、1980年代なのに曲が古風なロックで、それに乗ったDavidの歌声がか細い。Uriah Heepで何万人をも前に歌っていた彼とは別人のようだ。

【Robin George(若手のギタリスト・プロデューサー)の話】

ある日、Robinはウスターシャーの村に車を走らせていた。David Byronに会い、新しいプロジェクトについて話し合うつもりだった。Robinはまだ若く、Davidが大物歌手なので緊張していた。

パブに入ろうとすると、道に誰かがころがっている。Davidだった。彼は酔っ払って眠っていた。Robinは他の客に手伝ってもらい、Davidをパブに運び込んだ。目覚めたDavidにRobinは自己紹介し、彼らは飲みながら話を始め、二人は曲作りのセッションを始める運びとになった。Davidは親切で気さくで知的な男だったのだ。

Robinは自分の娘と共にDavidの家に移り住んだ。そこで曲を書いたりリハーサルをしたりして、Davidやその妻Gabyと一年間過ごした。その家はソンニングにあり、広大な敷地に建つ大きな家だった。Gabyはやさしい妻で、母親のようにDavidに接していた。

Davidは34歳になっていたが、以前からひどいアルコール依存症だった。

彼は大酒を飲みながらもステージをこなした。また、小さな会場で演奏するときもファンとのつながりを大切にした。誰もがDavidに酒をおごりたいし、彼は酒を断ってファンを落胆させたくない。そうした考え方と行動が彼を破壊していった。成功するためにはバンドが必要で、バンド活動をするためには酒が必要だった。

Robinは「Davidが飲酒をやめないと恐ろしいことになる」と感じていた。

【Bob Jackson(キーボード奏者)の話】

Davidはアルコール依存症から抜け出そうと努力し、依存症は改善されたかに見えた。ところがロンドンのマーキーで演奏したときに、彼はてんかんの発作を起こした。最前列に看護師がいたのが幸いしたが、Robinはギターのストラップを彼に噛ませて急場をしのいだ。次はパーティ会場で普通に歩いているときに発作を起こした。その時は上下の歯の間に鉛筆を挟んだ。彼は明らかに病気だった。

【On the Rocks後】

『On the Rocks』は売れず、Davidの経済状況は悪くなる一方だった。Robinと曲を作ることも無くなった。屋敷は売りに出され、疲れ切っていたGabyとは離婚した(彼女はドイツに戻り、ビジネスを始めた)。Davidの飲酒量はさらに増えたが、まだ必死で音楽をやろうとして、デモテープをレコードレーベルに送るなどしていた。


1982年、Davidは引っ越した。1984年に再び現れるまで、何をしていたかはっきりしない。負債は未払いのままであった。

【1984年 最後の年】

Davidはメイデンヘッドの10番、レイモンドロードにいた。

1984年、Davidは専門医から、「酒を飲み続けた場合、肝臓の病気で半年以内に死ぬ」と宣告された。脂肪肝から脂肪性肝炎になる可能性が高く、てんかんの発作も激しかった。しかし彼は一瞬飲酒をやめても、「肝臓が良くなり始めた」と言われるとまた飲み始めるのだった。

4月、彼は地方裁判所で判決を受けた。10年間に5回飲酒運転で捕まったためである。刑は、150時間のコミュニティーへの奉仕だった。もしこのとき彼が刑務所に送られていたら、彼の命を救うことができたかもしれない。それに、7年間の運転禁止も宣告された。しかし、もはや彼には運転手を雇う余裕などなかった。彼は再び大酒を飲んだ。

Davidの最後の数年間についてはほとんど知られていない。彼は一人ぼっちで暮らしていた。John Wettonはこの間もDavidと連絡を取り合っていたという。今となっては詳しい話も聞けない。彼も逝ってしまった。

Davidは転落し続けた。

彼は音楽を続けたいと願っていた。地元の若いバンドのマネジメントをしようとしたり、自分のレーベルを作ろうとしたり、新しいアルバムを作ろうとミュージシャンに連絡をとりスタジオを探した。こうしたプロジェクト計画は彼を生き生きとさせたが、計画は進むことはなかったし、病は悪化した。

【1985年2月28日の午後】

彼の親戚が、Davidの様子を見るためにメイデンヘッドのレイモンドロードの家を訪ねた。カーテンが引かれていて鍵がかかっており、呼んでも返事がなかったため家に押し入ると、Davidは一階の部屋の床に遺体となって横たわっていた。

地元の新聞は、ロックスターが彼らのすぐそばで死んだとわかるとDavidについての物語を載せたが、国民はそれをほとんど無視した。主要なロック出版物の多くも同様だった。地元のジャーナリストは近所の人や友人に尋ねたが、Davidが最後の数ヶ月、どのように過ごしていたか知る者は誰もいなかった。

ある隣人はイブニングポストに「彼はだいたい1年前に越してきた。最初はたまに話をしたりした。彼は非常にフレンドリーだったが、問題を抱えているようだった。友達はたまに何人か来ていた、しかし彼はあまり外に出て来なかった。彼はずっと家にいた。ここ数ヶ月間、この辺の誰ともほとんど接していなかった。」と話した。地元のテムズバレー警察は、彼の死を事件として扱わないと宣言した。

何万人もの人々を魅了した男は、最後の数ヶ月のほとんどを隠れ家で孤独に過ごし、一人で死んだのだった。

【Take No Prisoners】Man Full of Yesterdays

Man Full of Yesterdays


He wanted to go to the sun

He wanted to swim in the rain

He wasted his time, drinking whisky and wine

But now he's come back again


He's tried so hard to forget

What others would make him regret

But if I were he I'd listen to me

And keep myself in my head


Keep myself in my head...

この曲はGary Thainのことを歌っているそうだ。しかし、まるでDavidが自分のことを歌っているのかのようではないか。

(この曲はなんとなくクリムゾンの香りがする。)

近しい人がアルコール依存症だった。「飲む → 一瞬happyになる →酔いが醒めて自戒 → 辛くて飲む →」の永久ループで出口なし。家族や友人の愛情では止められない。身体のどこかが壊れて病院に担ぎ込まれても止まらなかった。


Davidは仕事を失い、金を失い、愛を失い、焦燥感と失望にもがきながらひっそり生活し、誰にも看取られずに亡くなったのだろう。Mick Box?Kenさん?どちらかの「あの時、少し休暇を取っていれば…」という言葉を思い出す。でも、いまごろ天国ではすごいバンドが次々にできて、Davidはまた歌いだしているだろう。

A Tale of Two Uriah Heep、完。

(2020/10/23)

Uriah_Heep 関連年表(一部)