A Tale of Two Uriah Heep
その1- バンドの「ユーライア・ヒープ」 黎明編
その1- バンドの「ユーライア・ヒープ」 黎明編
「Uriah Heep」は二つある。
ふたつあるんですよ。
一つ目はバンドの「Uriah Heep」。
1970年から現在まで続く、イギリスのハードロック・グループ。現存天守閣と同様に、「よく残ったものだ」と感動する現役バンドである。ファンはたいてい知っていることだが、そのバンド名は小説『David Copperfield』に登場する人物「Uriah Heep」からとられた。日本では「ユーライア・ヒープ」と呼ぶ。
二つ目は小説の登場人物「Uriah Heep」。
『David Copperfield』は19世紀イギリスの国民的な大衆作家Charles Dickensの有名な小説である。主人公は少年David Copperfieldで、その敵役がUriah Heep君である。日本では彼のことは「ユライア・ヒープ」と表記される。
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私は、日本の世の中には4種類の人がいると思う。
A:バンドの「ユーライア・ヒープ」を知っている人。
B:小説「デイヴィッド・コパフィールド」を知っている人。
C:両方知っている人。
D:そんなの関係ねぇ!って人。
どのグループに所属しようとも何も問題はない。しかしたまたまCグループの私は、Uriah Heepの曲を聞くたび、「なんでUriah HeepはUriah Heepなんだっけ?」と考えるのである。「なぜバンド名をUriahにしたのか。他の名前でもいいじゃないか。オリバーとかピップとか!」
バンドのUriah Heep、全盛期のメンバー
1999年のドラマのUriah Heep君
英国ハードロック黎明期の話である。
Uriah HeepはLed ZeppelinやDeep Purple、Black Sabbathと肩を並べるイギリスの大物バンドである。
プログレであるとかメタルであるとか歌謡曲みたいだとか、コーラスがイケてるとか凡庸であるとか評価が分かれるバンドだが、改めて聞いてみると心に訴えてくる確かなものがある。日本や東欧では根強い人気があり、Amazon等のカスタマー・レビューは熱いヒープ愛が溢れているし、ファンこだわりの素晴らしいHPも見受けられる。彼らについてはすべて語りつくされているという感じだ。
Heepは1970年に1stアルバム「...Very 'Eavy ...Very 'Umble」(...ヴェリー・ヘヴィ・ヴェリー・ハンブル)でデビューした。毎年二枚のスタジオアルバムを作りつつ、イギリス、アメリカ、ヨーロッパでライブツアーを行い、多くの曲をヒットさせた。しかし激務が続く中、bass のGary Thainが亡くなり、フロントマンのvocal-David Byronがバンドをクビになった。強力なメンバーを失ったものの、遜色ないメンバーを補充し危機を乗り越えたかに見えたが、10年目に誰もがリーダーだと思っていたkeyboard のKen Hensleyまでもがバンドから脱退してしまった。
まず、その経緯をまとめておこうと思う。
参考図書:Uriah Heep Uncensored on the Record by Dave Ling
(担がれてベースを弾いているのがGary Thain(bass)、担いでいるのはDavid Byron(vocal))
タイトルは『無修正の記録』といった感じか? Amazonで電子書籍を購入。ペーパーバックには3万円の値がついており、海外からの取り寄せとなってしまう。
この本は、2002年に出版された『悪魔と魔法使い:ユーライア・ヒープ ストーリー』の第二版として、2005年に出版された。
ファンも含めた関係者の証言を集め、Uriah Heepの歴史を明らかにしたものである。
一つはMick Box(guitar)と David Byron(vocal)のThe Spice。
もう一つはKen Hensley(keyboard)、Lee Kerslake(drums)、Paul Newton(bass)が在籍したThe Gods。
二つのバンドは「せーの」で合併したのではなく、徐々に混ざってUriah Heepとなった。狭いイギリス・ミュージシャンの世界ではくっついたり離れたりが普通で、Heepも同様だった。
Ken Hensley(サイババみたいな髪の人)は大きなエネルギーと才能を持ち、良くも悪くもこの話の中心となる人である。何人ものメンバーが彼のパワーに振り回され、振り落とされていった。しかし、最後にバンドに残ったのはMick Boxだった。
Kenには愛憎半ばの濃いファンの方が多く、Kenと呼び捨てにするのはどうにも気まずい。よってKenさんと呼ぶことにする。
Mick Boxは早くに父親を亡くし、彼の家庭は裕福ではなかった。しかし他の少年と同じようにロックに夢中になった。初めてのギターは、母親が質屋でローンを組んで買ってくれたもので、12£だった。ギターを手に入れてからというもの、彼は家ではギターを一時も離さず、暇さえあれば練習を重ねた。彼は感じていたのだ、この泥沼から抜け出すにはスポーツか音楽で有名になるしかないと。
彼はバンドを組んだ。交通費節約のために自転車で郊外からロンドンに通い、昼は輸出会社で働き、夜はバンド活動を行った。
ある日Mickは当時のバンドのドラマーから、「ボーカルにどうか」と自分のいとこを紹介された。それがDavid Byronだった。当時Davidはロンドンで株式仲買人をしていたという。母親がジャズのミュージシャンであるなど、子供のころから音楽に触れてきた人だった(子役でテレビに出ていたという話もある)。Davidはステージでは華やかなボーカリストであり、MickはDavidをすっかり気に入ってバンドに迎えた。MickとDavidの相性はバッチリだった。
…ミュージシャン一家の子供が「株式仲買人」になるのかな?謎…
Mick Box(guitar)
David Byron (vocal)
そして1965年、MickとDavidはThe Stalkersを結成した。
その頃Mickは肉屋の上階の部屋を借りて住んでいた。肉屋が閉まると、店のカウンターの中で、店の電源を拝借しながら寒さに震えてギターを練習した。彼らはダンスホールでカバー曲を演奏しながら、徐々に自分たちの曲を書き溜めていき、翌年にはクラブや大学など様々な場所でよい評判を得るようになっていた。
一方。
1965年、サイケデリック・ロックバンドThe Godsという(すごい名前)バンドが結成された。
このバンドの主なメンバーは、
Ken Hensley(keyboard)
Lee Kerslake(drum)
Paul Newton(bass)
その他Greg Lake、Mick Taylorなど有名な人が出入りしていた。
…なんや、みんな知り合いやったんか…
のちにKenさんは「Greg Lakeは上手すぎてEL&Pに移籍した」と言っている。またMick Taylorは自身がこのバンドにいたことを「覚えていない」と否定しているらしいが、どう見てもKenさんと一緒に演奏している写真がある。
Kenさんはロンドン生まれ、12歳でギターを弾き始め15歳の時にはギグで演奏していた。その後「Ken And The Cousins and Kit」 、「The Saracens」、「Toe Fat」など多くのバンドをかけ持ちしていた。Kenさんは「特にクラシックの教育を受けていたわけではない」という。ところがKeyboardもguitarも弾けるし歌も上手く、曲も作る、多分天賦の才能がある人である。大柄で眼光鋭く、写真や動画を見ると「俺が俺が」感があるが(真ん中に写りたがるタイプ?)、そこがまたカリスマ的である。
Ken Hensley(keyboard)
Lee Kerslake(drums)
Paul Newton(bass)
1967年、MickとDavidはプロに転向することを決意し、The Stalkers を解散し、あらためてThe Spice を結成した。メンバーは
Mick Box(guitar)
David Byron(vocal)
Nigel Pegrum(drum)
Paul Newton(bass, The Godsから)
この時期のキーパーソンはPaulと彼のお父さんである。
Paulは「初めてDavidに会った時、利己的だと思った。しかしそれは歌手にはありがちなことで、実は親切で健全な人であった。Mickも気楽な人柄だった」と言っている。この頃は皆健康的だったし、Paulはうまくバンドになじめていた。
Paulの父親はAndoverという町でダンスホールを経営しており、彼がバンドのマネージメントを引き受けるようになった。Andoverはロンドンから離れているが 、父親はThe Spiceに頻繁に彼のホールで演奏させるように計らい、全国各地でのライブをセッティングした。
波に乗り始めたThe Spiceは、ユナイテッド・アーティスツ・レコードからシングルレコードをリリースし、また、ロンドンのマーキークラブでメインバンドとして演奏するようになった(実質Rolling Stonesの後釜だったという)。バンドの努力と、Paul父の尽力の結果でもある。The Spiceの成長を願うPaul父はさらに強力なエージェントが必要だと考え、音 楽プロデューサーGerry Bronに「バンドを見に来るよう」5ページにわたる手紙を書いた。
それからThe Spiceの運命は大きく動き始めた。
Gerry Bron。
イギリスの音楽プロデューサー。当初、ヴァーティゴ・レコードでUriah Heepを始め、いろいろなバンドをプロデュースしていた。
Gerry Bronは非常に優秀な実業家で、プロフェッショナルであった。彼はThe Spiceと契約し、バンドを売り込むことにした。Paul父は彼にかなわず、だんだん発言権を奪われていった。
Bronはバンドを売り出すにはキーボード奏者が必要だと考えていた。
ある日Bronとバンドメンバーは、新しいキーボード奏者候補について議論していた。バンドのメンバーは「キーボード奏者の候補を知っている、しかし好きじゃない」と言ってバンドに迎えるのに消極的だったが、Bronはその「謎の人」を紹介するように言った。
そして彼と謎のキーボード奏者は、レコーディングスタジオのミキシングルームで会うことになった。
スタジオの扉がゆっくり開き、Bron の前に現れたのはKenさんだった。
BronとKenさんはすぐに熱く語りあい、BronはKenさんのことを相当気に入った。バンドのメンバーに「いいじゃないか、何か問題か?」と尋ねると、メンバーは「まあまあかな」と答えたという。そしてKenさんはキーボード奏者としてThe Spiceに加わることになったのであった。彼らはうまくやれたのだ。最初は。
Bronはさすが敏腕プロデューサーである。Kenさん効果は絶大だった。Kenさんのハモンドオルガンはバンドの音を厚くし、その歌声はこれまで以上のハーモニーをもたらした。それらはのちにUriah Heepのトレードマークとなる。バンドはDavid、Kenさんの2人のリード・シンガーを備えることになった。
しかし、のちに加わるLee曰く、
「Kenは珍しい奴だった。Kenに左に曲がるように言うと、彼はいつも右に曲がった。彼は賢かったが、卑劣だった。」
…LeeはThe GodsでKenさんと一緒にやっていたのに辛口だ。Leeの出番はもう少し後である…
Mick曰く、
「自分達はThe Spiceという名前をそんなに気に入っていなかったので、バンド名を変えようとしていた。候補名リストは長くなり、その中にはシャンプーの名前まで入っていたが、なかなか決まらなかった。」
「その年は、英国の小説家Charles Dickensの没後100周年で、ブッククラブやTV、バスの広告など様々なところでそれが宣伝されていた。Bronはたまたま子供を連れて映画「David Copperfield」を観に行ったが、そこで登場したのが「Uriah Heep」であった。彼は戻ってきて『これが私たちの名前だ』と言った。最初は気に入らなかったが、その名を得てからバンドはどんどん成長した。世界中で有名なイギリスの小説のキャラクターから名前をとったのは素晴らしいことだった。」
詳細は次節で書くつもりだが、小説に出てくるUriah Heep君は、痩せていてのっぽで青白い顔の、ぬめぬめした手の男である。彼はことあるごとに自分のことを「育ちが卑しい(humble)ものですから」と自分を貶める言い方をし、相手を不快にするのだった。勤め先で不正をはたらき続け、最後は犯罪者になってしまう。
だから、バンド名を「Uriah Heep」にすることは、自虐的で辛辣できつい冗談である。その名前を喜ぶのはいかがなものかと思うが、雑誌などでDeep Purple、Black Sabbathといったバンド名に並んでも印象的で、ひけをとらない名前だったという。
Bronは何を感じて命名したのだろう。
1970年にGerry Bronがプロデュースした「Very ‘Eavy, Very ‘Umble」がリリースされた。
Mick Box(guitar)
David Byron(vocal)
Paul Newton(bass、The Godsから)
Nigel Pegrum(drums)
Ken Hensley (keyboard、The Godsから)
ジャケットの男はDavid Byron。
蜘蛛の巣にかかり苦しみに叫ぶ男は「David Copperfield」のUriah Heepを彷彿とさせる。
Kenさんの参加は遅かったので、このアルバムの曲のほとんどはMickとDavidによって書かれている。二人は肉屋のカウンターの裏で曲作りのノウハウを培っていた。
「Gypsy」は最初のヒット曲である。 「Gypsy」はキーボードで始まるが、それもすべてDavidが書いた。彼はピアノが弾けなかったので、不器用にピアノを弾いて作曲した。レコーディングではKenさんが弾いた。
…う~ん、確かにプログレにも聞こえるけど、シンプルだし、サイケでヘビィでポップだ。何と言ってもDavidのvocalがいい。keyboardはあんまり関係ないかなあ…
BronはHeepの音楽をこんな風に「ジャンルの混沌」を特徴とした感じにまとめた、ということだろう。
Bronについては、Kenさん曰く、
「Bronはマネージャがすべきことをした -それはミュージシャンが音楽に集中できるようにすることだった。」
しかしPaulはBronについて否定的だ。
「結果的には彼がUriah Heep担当になったのは間違いだった。Bronはポップミュージックに夢中だった。彼はManfred Mannやそのような人々を扱っていたし、彼は常にバンドをバブルガム、ティーンボップの方向に操縦しようとしていた。もちろん、それは私たちにとって受け入れられないことだった。最初からUriah HeepはUriah Heepだった。」
…PaulはBronがバンドの音楽に口出しするのが嫌だったのかな。…
アルバムがヒットしたにもかかわらず、バンドの財政は豊かではなかった。Bronは利益を巨額な広告費に充てていた。Mickは「メンバーが要求しないと金をくれなかった。それも必要な分だけ。当時はそれでも楽しかった」と言う。
ある日突然、Heepはすべての音楽雑誌の中心になった。酷評だった。
ローリングストーン誌のレビュアーMelissa Millsは「このグループが次のアルバムを作るなら、私は自殺しなければならないでしょう」と書いた。
「最初の音からもうあなたは聞きたくなくなる。退屈なJethro Tullよりもっと退屈。Heepは、ボーカル、オルガン、ギター、ベース、ドラムの5人のメンバーで構成されている。彼らは独自の音を作り出すことができない。面白くないもう一つの要因は、すべて和音の繰り返しでしかないということだ。同封のプロモーション情報によると、Heepはこの1年をスタジオで過ごし、リハーサルし曲を執筆した。彼らのパフォーマンスの欠如は、レコードの質の低下に反映されている。もし彼らがクラブでライブをしたら、彼らはステージから投げ出され、客の時間、金、ビニールの無駄を救うことができただろう。」
…「たわけ記事15本集」?に掲載されています。他のミュージシャンのアルバムも酷評されています。(^^; …
これらの記事は、Heepがフルートを演奏していないとか、片足で立っていないなどの事実を確認せずに発表された。このような否定的な評判はファンを盛り上げ、よい評判が口コミで広がっていった。Paulの父だけでなく母も地道な宣伝活動に加わっていた。
彼らはツアーで西ドイツにも行った。Hamburgのギグはバンドもお客もたいそうな盛り上がり、西ドイツでの人気を確定したという。
彼らはバンでドイツを巡った。
Kenさんは「バンに女性や友達は入れない」というルールを作った。もちろん最初の日にKenさんは女の子をひっかけた。彼が窓の下にくると、皆叫んだ「お前がルールを作ったんだ、出ていけ!」彼は電車でこの女の子と一緒に旅行する破目になった。Kenさんは自分の気に入るように仕切るのが好きだが、いつも失敗するのだった。
Hamburg には巨大歓楽街「Reeperbahn」がある。「SohoなんかReeperbahnに比べたら何もない、Sohoが15個集まってもReeperbahnにはかなわない。独身メンバーは遊びまくっていた。私はHeeperbahnと呼ぶべきだと言っていた。」とMick翁。その頃は20歳、エイズ問題もなく遊んでいたそうな。
一方、DavidはHamburgでGabbyというドイツ人女性に出会った。Davidは後に彼女と結婚した。この人たちはずっとラブラブだったのだが。
Mick Box(guitar)
David Byron(vocal)
Paul Newton (bass)
Keith Baker (drums)
Ken Hensley(Keyboard)
Bronとバンドは働き続け、「Salisbury」というアルバムを録音した。
Salisburyの「Alex Disco」でのギグで、バンドが観客に助けられる事件があった。彼らはその事件自体を「Salisbury」と呼び、ファンに捧げることにしたという。
有能なKenさんは、「Salisbury」の曲の中で、半分を書いてしまった。ケンは非常に多産であり、彼の作品は一貫して優れていた。
Paul曰く、
「レコードジャケットのセンスは二流であった。写真の戦車について何か意味があると思っていた人は多いが、実際にはSalisburyには陸軍訓練場があり、よく戦車を見かけた。Salisburyと戦車の組み合わせは当時そうおかしなものではなかった。」
アルバムについては、世間の評判は悪くてもファンは激賞し、バンド自身も気に入っていた。
HeepはThree Dog Nightや他のポップグループとアメリカツアーに行った。
Heepの部屋は3つしかなかったが、彼らにとってホリデイインは宮殿のようだった。イギリス国内ではクラブや大学での演奏にとどまっていたが、アメリカでは20,000人収容のスタジアムで演奏できるのだった。Heepへの拍手は少なく、彼らはウケる方法を考えなければならなかった。
Mickはギブソンを30フィートの高さまで空中に放り出し、受け取る芸を考えた。またDavidは孔雀のごとく華やかに振舞った。まさにステージに立つために生まれた男。
そののちも続く彼らのステージマナーはアメリカツアーで開花した。
Mickが見せびらかす「左手のトリル」。工藤静香のマネも…(01:30あたりから)
…Alex Discoは70年代には営業をやめてしまったようだが、BBCのページにこんな資料がありました。毎月いいバンドが出演していたんですね。
Mick Box (guitars)
David Byron (vocals)
Paul Newton (bass)
Iain Clark (drums)
Ken Hensley (keyboard)
Uriah Heepの生活の速度は速く、北米ツアーから戻るや否や、3枚目のアルバムのレコーディングを始めた。
Bronは1971年に自らのレコード会社「ブロンズ・レコード」を設立。3rdアルバム「Look At Yourself」はブロンズ・レコードよりリリースされた。
…BronだからBRONZE RECORDだったのか…ダジャレやったんか…
HeepはついにLed Zeppelinの「天国への階段」やDeep Purpleの「チャイルド・イン・タイム」に匹敵する曲「7月の朝」を持つことになった。「7月の朝」はKenさんとDavidの協力の結果であった
Bronはバンドに時間、組織、金銭を投資していたが、売り上げは追いつかなかった。しかし「7月の朝」や「Look At Yourself」のような曲から、Heepのレコードが売れ始めるのは時間の問題だと確信していた。
しかし、Paulは大きなストレスを感じていた。
Paul父とバンドは上手くいかなくなっていた。
Bronがエージェント、プロデューサー、レーベルのボスとして多くを決めているのに、Paul父は自分がマネージャであるかのように振舞い、コンサートに現れたりしたからである。Paul父はBronが仕切っていることに不満を持っていた。もともとは彼が支援していたバンドであり、その上バンドのレコーディングや、ツアー、その他に何千ポンドも投資していたが、回収できないでいたのだ。
また、KenさんとBronはDavidと対立していた。
Kenさんは優秀多産な作曲家である自分とその曲を、Bronに売り込んでいた。Davidはバンドのフロントマンとして、一番であり続けようとした。トップ争いだ。
加えてPaulの妻は出産を控えているが危険な状態となり、彼の神経は参ってしまった。それをバンドに相談すると、「代わりは誰でもいるよ」と言われ、冷たくされたという。Paulはもう耐えられなかった。
ここで、The Spiceの時からUriah Heepになるまでバンドを支えてきたPaul Newton親子は去ってしまった。その後Paulは長い間苦しんだ。Heepが有名になればなるほど苦しんだ。
そのあとも、Heepは成功を目前にしながらも内部の権力闘争を続けていくのだった。
Mickはいつも中立たっだ。バンドが成功することだけを望んでいたからだ。
…書ききれない!次回はA Tale of Two Uriah Heep -Struggle- です。よろしくお願いします。
(2020/7/12)
Heepを知らない方、忘れた方、一度ご覧になってください。1973年のツギハギ動画ですが、「最盛期」と言われている頃のメンバーです。
この時、Gary Thainは指のマメをつぶしてしまい、毎日日本人医師の「不思議な」治療を受けていたとか。
みんなカッコいいです。
…ところで、「あーむ堂」HPの表紙の写真はSalisbury大聖堂の通用門なんです(正面玄関がうまく撮れなかった)。私は本屋への「入口」として適当に写真を選んだだけだったのですが、、、今、HeepのSalisburyにつながりました。大きな陰謀か宇宙の意思ですね、これは…