四半世紀前に、夫と上海観光に行った。黄浦江(こうほこう)の堤防にはいろんな人が歩いていた。大きな声、手バナ、吐痰。背後で「カーッ」とやられると、キャアといって飛びのきたくなる。『吐痰禁止』の立て札の効果はないようだ。しかし、当たったことは一度もなかった。そのコントロール力はすごいのだ。
素人に道路は渡れない。車も人も信号を守らないので、めちゃくちゃだから。そこで、「角刈りのアニキ」を探して彼の後ろからそろそろとついていく。渡り方に安定感があるからだ。あんな状況で、どうして『大通りを横切って』のようにならないのか不思議であった。
ある夜、中華に疲れ、夕食はホテルの近所で食べようということになり、外国人の多いレストランに行って何杯か酒を飲んだ。その帰り、道は広くて明るくさわやかな夜で、気分良く歩いていたところ、どこからか水色のワンピースを着た少女が現れた。小さな花束を持っている。中国語はわからないが、「買ってくれ」と言っているのだ。う~ん、マッチ売りの少女か?
正直、断れないね。無理。
彼女は私たちの脇が甘いことを見抜いていた。
私たちに花を売ったあと、彼女は新たなターゲットとなる外国人カップルを見つけ、蝶のように去っていった。
花束は、払ったお金ほど立派ではなかったが、うれしかった。こんなことでもないと花を買ってもらえないから。そして、其の地の共産主義について考えた…。
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さて、
『薔薇販売人』は、吉行淳之介の処女作だそうだ。すごいな。
紅い薔薇の花を一本持った男が、小石川の住宅街を歩きまわる、という話である。
檜井二郎は、やる気のない若い下層会社員で、その朝ふらっと通勤電車を降りて、小石川を散歩する。そして、酒場で耳にした偽の「薔薇売り」をやってみようと思う。偽の薔薇売りとは、野苺の葉をすべてむしりとり、「薔薇の鉢です」といって行商することである。
彼は花屋を探し、一本の紅い薔薇の花を買った。
歩いていると、家の窓から深紅の羽織が花飾りのように掛けられているのが見えた。その部屋で男女が何かを語り合っている。檜井は悪徳めいた匂いを感じた。その家には、恭吾とミワコが住んでいた。夫はなまけものだが強い男、妻は驕慢かつ古風な女。檜井は子供っぽい表情を見せながら花を売ろうとするが、断られる。これを境に、檜井は彼らに迫っていく。
ある日、また薔薇を持って訪ねた時、恭吾は留守となり、風邪で寝ているミワコと二人きりになった。彼はポール・モオランの『夜ひらく』に書かれている心理ゲームで遊ぼう、と提案する。心理ゲームを続けるうちに、二人の関係が変わっていく。
(以下、ネタバレになるので省略)
紅い薔薇を一本持って歩いていたらおかしいだろう。が、まあいいのである。
そして、簡素な部屋に掛かる紅い羽織。紅が鮮やかだ。
いろんな人が隠微だと書いているし、私もそう思っていた。しかし、今読んで感じるのは、檜井は別にHがしたいわけではなく、心理戦を楽しんでいるのだ。恭吾を懐疑的にさせ、ミワコの心を揺さぶる。自身も二人から小さい攻撃を受ける。三角関係に至るまでに発生する感情の揺れを味わっているのである。当然、勝利をめざしている。
この人たちに恋愛感情はない。関係性の中で、それぞれの立場になって行動してしまうことを描いているように思える。
檜井は「甘い生活」のマルチェロに似ている。でも、もっと砂漠のように乾いた心である。それが痛い。自分も含めて、乾いた心の人は現代にもたくさんいるが、どうすれば潤うのだろう?
もし誰かがドラマにしてくれるなら、檜井はディーン・フジオカがいいと思う。ミワコは太地喜和子か沢尻エリカ、恭吾は伊三次。
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聞くところによると、今の上海は相当変わってしまったそうだ。租界跡にパジャマで住む人々、窓から窓に渡された洗濯物で通れない通路、私の財布をのぞき込んだ人々はどこに行ったのか。
そういえば、上海は中国共産党結党の地である。中共一大会址記念館というのがあり、博物館になっている。日本がこんなひどいことをした、とたくさん書いてあるので(しかも日本語で)辟易するが、結党時を再現する蝋人形もあり、なかなか面白かった。夫は売店で「赤い手帳」を買い求め、販売員のオバサンに嫌な顔をされていた。私も困惑した。確かにどうかしているよ。
(2019/06/27)